中毒記

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zoom RSS そして永遠たれと願った瞬間から永遠はその美しい命を全うすべく永遠たるままに摩耗することをはじめ

<<   作成日時 : 2010/09/29 02:29   >>

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 時間軸とは、一つの方向へ一定して流れ、そして去っていくもの、のようなイメージを持つと理解しやすいように思うけれど、時間の本質を捉えようとするならば、そのイメージは本来の姿から認識を遠ざけてしまってるんじゃないかと思う。
 私たちは、法則性を当てはめなければ物事の仕組みを理解しがたいのだけれど、たとえばこういう場面はどうだろう。

 喜びの瞬間。

 誰しも覚えがあると思う。心に受けたその衝撃で、意思とは関係なく肉体に著しい変化を顕すような、そんな強烈な精神的経験だ。視界が揺れ、体温が上昇し、拍動はみるみるうちに早くなり、こぼれる笑みを押さえ込むこともできない。そんなプリミティブに過ぎるエネルギー噴出の瞬間、私は、時間が時間そのものの持つ内圧によって、虹のように噴出し、世界のすみずみへ四散するのを感じる。

 そこには、永遠があると私は思うのです。

 文学的修辞などではなく、時間そのもののもつ本質として、そのあらゆる瞬間に、永遠を内包する“才能”が付加されているんじゃないだろうか。
 私たちが、そのこと=つまり、時間は一方向にのみ運動し流れ去って行くような性質のものではなく、常に永遠を内包しうるものである、ということをありありと感じるには、たとえばそんな喜びの瞬間のような“特異点”に居合わせることが必要だ。

 それまでの主観的時間軸に対して突然垂直に伸び上がるような時間の突出を体感すること。その経験が、本来時間が備えている“才能”に気づき、“時間の胎内”から永遠の種を探り当て、その成長を観測するための近道になるわけです。

 私たちがそれを間近に体感する機会はこのようにごく稀だけれど時間そのものは常に世界を永遠して遊んでいるものなんじゃないかなあ、なんて私には思える。 

 永遠は、いつだって永遠だ。
 けれど私たちは期限を区切られた知覚でもって世界を認識せざるを得ない生き物であるから、その知覚するところである“永遠”は次第に摩耗する。
 喜びの瞬間、後に振り返ればそこには確かに“永遠”が存在すると“理解”はできるけれど、私たちはその瞬間を“永遠に”生きることはできない。

 あなたがそのような存在であるから、私はあなたが、愛おしいってわけ。

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