中毒記

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<<   作成日時 : 2010/09/15 02:47   >>

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 共感覚とは、人類の知能にプリセットな五感(六感とも言われているらしいけども)に互換性のある状態のことで、駄洒落ではなくて、
 なので共感覚者とはその感覚を、程度に多寡あれど備えている人間、あるい“残している”人間のことだ。そうです。だいたい(だいたいなので、それが“病気”と認められるほど程度のひどいものであった場合のこととか、突っ込まないでいてほしいなと思う)。

 なぜ“残している”というかというと、ええとそもそも、人間が生まれて脳みその発育が途上にある間、つまり感覚が未分化で未熟な状態では、誰もが五感の互換を経験しているから、だとかどうとか、言う説があるのらしく、ではなぜそれが成長とともに失われてゆくかというと、世界は“分類”したほうがわかりやすいから、ということに尽きる、つまり、感覚を大幅にエディットしてフォーカスを定めたほうがリスクが少なくハイエンドでパフォーマンスが向上して大層プロユースだから、みたいよ。漠然とわかる、全然わからんこの語句の羅列、どうでもよさ抜群。どうでもよい。

 とかく人類の知能は“分類”の方向に発達を遂げてきたのではないか、と私は思う。
 だいたいが、言語の性質、“名づけ”という行動の意図そのものが、“事象と主体との間に仮の関係性を与えることにより一旦座標を固定する”てな感じではないか、と。
 
 つまり世界は、自己と対象の間により明確な座標を刻むことが出来る者であればあるほど、その主体にとって把握することが容易になり、輪郭を得て、理解度は明澄になってゆく。

 人がおぎゃーと生れ落ち、その成長の過程を経るうち、きっぱりぱっきりと分化されてゆく五種類(六種類とも)の感覚器官を用いて、そのそれぞれが感受する外界の情報を仕分け、収めどころを決め固着させ、以後必要になるまでそこに定着させる。無事ところを得た情報は、以後スムーズに出し入れ可能となり、かくて主体は世界と自己に関連性を見出すことが可能になるわけだ。

 ところで頭がごっちゃごちゃの子が。いるとします。
 彼は自分のうちにアウトプットの要求があることは感知しており、その矢印は常に外へ向かって突き出されようと撓みに撓んでおるのだが、どういうわけだかいつも脳みそぱんぱん地獄釜、その矢印の直進することあたわずグネッと弧を描き内部へ引き戻ってくるの繰り返し、毛穴から痛みと共に粘液の滲み出すがごと膨れ上がる欲求。

 なぜ。なぜならば彼人の脳みその中では、五感(六感かも)が分化されていない、のである。匂いは色を連れて涙腺から飛び出し、味は吹き付ける旋律でその体を押しやり流そうとし、形は耳障りを伴ってその全身を撫で上げ、音は彼の皮膚そのものの組成を変化せしめるがごとき圧迫、肌触りは枯渇とともにその喉を落ちてゆく。そんな毎時毎分毎秒毎時毎分毎秒、彼の中の矢印は直進することなく永久に内側をらせん状に穿ち続ける。永遠にこのままではひょっとすると死んでしまいます。わかんなさすぎて。

 しかしやがて彼はその認識のなかに座標を見出してゆく。その座標とは、“限定された空間(あるいは仮想的精神的空間)を占める自己の前後左右天地”とでも言うべきものである。つまり彼は地面を設定しない。認識に、重力ある地平を見出さない方法で自己を固定させたのだ。
 それこそが彼の“言語”であるといえる。しかしそれは、“名づけ”という性質を持つ言語ではない。“事象と主体との間に仮の関係性を与えることにより一旦座標を固定する”という方法論とは別の認識の道筋を持っているからだ。

 結果彼は、自分は動かずやってくる世界を仕分ける、という方法を採らず、自己を運転して不定形な世界をにょろにょろと泳ぎ回ることを選択する(させられる)、のである。

 明確な輪郭を持つ世界を輪郭の内側で認識するものと、その外側を液体のようにじゅるじゅる撫で伝いながら確かめてゆくもの。
 私のイメージの中には互いに相容れぬ“言語”を持つもの同士が知らずみっちりとパズルのようにかみ合いながら固着しつつ流動し、世界を形成しているような、そういう幻想がある。
 
 “にょろじゅる派”の強みとしては、その用いるところの“言語”が多少の位相の移動を見せたところでさほど世界の見え方に違いがない、ということかと思う。
 “言語”とはまことに曖昧な定義をもつ語句であって、つまりその曖昧さを違和感と感じる必要がないのが“にょろじゅる派”だ。彼らはあらゆる法則を“言語”として扱うことをもともと得意としている。法則の発見こそが彼らを救済した“言語”の雛形そのものだからである。そして彼らにとって“言語の発見”は、最高におもしろい遊びでもあり得る。
 
 おもしろい遊びなのだ。
 新しい言語の発見。
 毛細管を染み入る液体のように輪郭を埋め尽くす法則、それは語句の形をとっておらずともかまわない。音楽と呼ばれるものであれ、絵画、踊り、呼吸だろうと停止だろうと秘密でも入浴でも、なんだってかまわないのだ。 
 
 ただ、そこには緻密なツールが必要となる。
 そのツールを構成しているものは、やはり“ラングエジ”であるところの言語、なのである。緻密さと固着を嫌う“言語”の結婚の場において、その仲を取り持つ言語、
 これこそが私の求むる言語、であるよ。なあんてな。

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